これだ。
この本、実家からもらってきたのだ。
先日、実家でこの本がテーブルの上に置かれていた。いかにも買ってきましたという体で。
母が買ったのだ。
僕は言う。
― 「ねえ、この本。前にも買ってあるでしょ。」
「そんなことないよ。」
母は答える。
僕はさらに言う。
― 「いや。絶対買ってるって。俺、ここで読んだ記憶があるもん。」
「えー。そうかなあ。でも同じ本、二度も買わないと思うけど。」
あたりまえである。
僕はすぐさまリビングの本棚からまったく同じ本を見つけ出した。
「あら、ほんとに。」
母はとくに驚くふうもなく、パンを食べている。
ー「もー。そうやって表紙や見出しに惹かれて買ってきてはつんどく(積ん読)みたいな雰囲気にしてるから、こういうことになるんじゃないですか。」
こんな一幕が繰り広げられて、この本は我が家に登場する運びとなった。同じ本が2冊あってもしょうがないし、とてもいい本だから欲しいと言ってもらってきたのだ。
『昔ながらのおかずをちゃんと作るコツ。』は2003年に登場したらしい。その後コンパクトにまとめた新装版が登場した。人気があるのだろう、手元にあるもので第6刷である。
各テーマごとにひとりを取材して書かれているので、細かい部分でそれぞれ流儀が違っていたりするのが面白い。
へー、鶏の唐揚げと竜田揚げの違いは甘味があるかないか、なのか。このレシピでは醤油と味醂が同量になっているな、なるほどこれならしっかり甘味がつくだろうな。
この大根と厚揚げの煮物はおいしそうだなあ、今度作ろう。
あー、そうかこの頃はまだ小林カツ代が元気だったんだなあ…。
などなど。
パスタばっかり作ってきた僕が言うのもなんだが、イタリアンを上手に作れるのもいいけれど、こういう一見すると地味なおかずを上手に作ることができるのって、すごく素敵だ。こういう慈しむような食事をできるようになりたい、などと思う。
すっかり本を愉しんで、しまおうとしたときに戦慄が走った。
あっ!!
―阿房(あほう)と云ふのは、人の思はくに調子を合はせてさう云ふだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考へてはゐない。
『特別阿房列車』より/内田百閒
主だったものは文庫版で持っているのにも拘らず、である。
西荻窪『音羽館』にあって、買おうかどうしようかずっと悩んでいたのだ。悩んでも仕方がないので、思い切って買ってしまった。
本というものは、こういう函入りの全集になっていると多くの場合読まなくなるのである。手にとるのが億劫になるから。気軽に手にとって読むことができる文庫本が読むには一番いい。僕は所謂ビブリオマニア*ではないので、本は読まなくては意味がないと思っている。
でも嬉しい。とても嬉しい。
勿論自分ではそんなふうに考えたくはないけれど、僕は阿房かもしれない。
そもそもある程度規模の小さい、気持のいい古本屋さんには辞書の扱いさえなかったりする。
でも僕は辞書コーナーに立ち寄る。いや、立ち寄っていた。今までは。ずっと探していた辞書があったからである。
『新明解国語辞典 第四版』(三省堂、1989)
1刷りだ。ついに手に入れた。
三省堂『新明解国語辞典』は独特の語釈と用例で多くのファンを持つ。もちろん僕も大ファンである。
現在は第六版が販売されているが、僕はずっと第五版を愛用してきた。ではなぜ第四版に拘ったのか。
それは、かの有名な【動物園】の項目を引きたかったがためだ。第四版でも初期刷りでなければ、あの語釈に出会うことはできない。
【動物園】 生態を公衆に見せ、かたわら保護を加えるためと称し、捕らえて来た多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする、人間中心の施設。(第四版)
おおお。完全に動物園を敵視している。
この項目はさすがに批判を浴びたと見え、四版でも途中から変更されてしまうのである。ちなみに第五版にはこうある。
【動物園】 捕らえて来た動物を、人工的な環境と規則的な給餌とにより野生から遊離し、動く標本として都人士に見せる、啓蒙を兼ねた娯楽施設。(第五版)
多少やわらかくはなったが、動物園に対する敵意は緩まらない。どうしてそこまで敵視するのか。
ちなみに、五版で僕が好きなのは【せこい】の用例である。
【せこい】 ―②狭量だ。規模が小さい。「世界征服をたくらんでいるというわりには、どうして幼稚園のバスをねらったり、子供をさらったりと、せこいことばかりするのだろうか/…」
【せこい】の項目はその他の用例もかなりのものである。
新明解国語辞典の森は深い。
真ん中に写っている函入りの本、5冊。
『チボー家の人々』(全5冊)
ロジェ・マルタン・デュ・ガール著、
山内義雄訳(白水社,1956)
西荻『にわとり文庫』で買う。驚きの2,100円(5冊で)。にわとり文庫は西荻に数ある古書店の中でも、価格が良心的だと思う。取り扱いジャンルも僕の好みにほぼストライクだ。
『考える人』2008年春号に『黄色い本』の著者、高野文子さんと鶴見俊輔さんの対談が載っていて、面白く読んだ。
主人公の女子高校生が『チボー家の人々』を読んで、本の世界に引き込まれて、小説の登場人物であるジャック・チボーと(空想世界で)友人になる。現実世界と空想世界を重ね合わせて描かれていてとても面白い。
著者の高野文子さんは、この本を読んでいるときに、その日読んだ内容と自分の一日の出来事とを、同時進行で日記につけていて、ノートに『今日おこったこと、友達のだれと意気投合したとか、だれと喧嘩したとか、そういうことをチボー家のジャックに伝えるかのように日記に書く、というのをえんえん一年もやっていた』そうだ。
なるほど。だからこんな漫画が描けるのか。こういう素晴らしい作品に出会うと感動するのはもちろんだけれど、実はちょっとだけ嫉妬する。こんなものが描けたらいいなあ、と。僕は漫画家でも小説家でもないのだけれど。
さて、『チボー家の人々』はかなりのボリュームである。高野文子さんは一年かかった。
僕は本を読むのが遅い。読みたい本も大分たまっている。
これを読了できるのはいつの日か。
いしいしんじ『麦ふみクーツェ』(理論社)を読んだのは、去年の今頃だったと思う。
土曜日だというのに会議に招集され、ぐったり、いやあな気分の帰り道、本屋さんに立ち寄って見つけた。いしいしんじの名前は知っていて、ずっと読んでみたいなあと思っていた。
本当は『ぶらんこ乗り』を読みたかった。でもそのときはたまたま売ってなくて、この『麦ふみクーツェ』を手に取ったのだった。
そのまま西荻窪の『戎』に寄って、ビールを飲みながら読み始めたのをよく憶えている。土曜の夜。ガヤガヤとうるさい店内。大ジョッキ(『戎』には中生がない)。
「麦ふみのことなんてなにもしらなかった。」
この出だしを読んだときに、「ああ、いける」と思った。あとはもうぐんぐん惹きつけられていった。この本は、食べ物をおいしいと感じるとか、色をきれいだと思うとか、音楽を美しいと思うとか、人のことを思うとかそういう感動の根っこの部分をきちんと捉えていると思う。
もう、感動する場面がたくさんあってキリがないという感じだけれど、特に『へんてこさに誇りをもてる唯一の方法』のところは、もう!ここを読んでいるとき、僕は東西線に乗っていて(仕事で移動中)、茅場町あたりで思わず涙が出てきて自分でもびっくりした(僕は人前で泣いたりすることは、まずない)。欠伸をしたフリをしてごまかしたけれど、さぞかしおかしな態度だったろうと思う。誰も見ちゃいないと思うけれど。
「ねえ先生」
とぼくはいう。「みどり色は何十万にひとりなんかじゃない。この世でたったひとりなんだ。ねえ、ひとりってつまり、そういうことでしょう?」
先生はなにもいわなかった。こたえをかえすかわり、鏡なし亭につくまでのあいだクッションのきいた座席の上で、ずっとぴょんぴょこ跳びはねていた。
その後、いしいしんじは僕の大好きな作家のひとりになった。一冊一冊丁寧に読み進んだ。それでも『麦ふみクーツェ』が一番のお気に入りだ。人生のベスト3に入るかも、と思っている。
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『Pocketful of Poetry』
Mindy Gledhill
この数ヶ月、僕は「ミンディ・グレッドヒルは分かってる!」と叫び続けてきた。この人のアルバムからはポップってのはこういうものさ、という自信が滲み出ていると思う。tr. 2『Trouble No More』がツボ中のツボ。僕の好物ばっかりいっぱい詰まってる。決して大袈裟な表現ではなく、棄て曲なし、最高に幸せな30分あまり。
『D'ACCORD』
SERGE DELAITE TRIO with ALAIN BRUEL
アトリエサワノのピアノトリオが大好きです。2枚同時発売のうちの1枚。これはピアノトリオにアコーディオンを加えた演奏。明るい休日のランチ。冷えた白ワイン飲みたくなる感じ。
J.S. Bach/Goldberg Variations
Simone Dinnerstein
ゴルトベルク変奏曲からグールドの影を拭いきれないのは仕方がない。この人の演奏には”脱・グールド”みたいな気負いはなく、曲に対してもグールドに対しても愛情に満ちていて、丁寧で、やさしくてすごく好きです。