何度でも、くりかえし作るメニューというのがある。
この豆腐と枝豆としらすの和え物は、作る頻度が非常に高い。手軽だし、人に出したときにも評判がいいからだ。
ビールのお供に。日本酒の肴に。
本当は、夏の出盛りの枝豆を固めに茹でて作るのがいい。夏の夕方、窓を開け放って飲み干すビール…。
うーん。いいねえ。
今は出盛りの枝豆というわけにはいかないので、冷凍のものを使う。
材料は、枝豆、木綿豆腐、しらす(しらす干、または釜揚げしらす)、しょうが、ごま油、塩、胡椒、しょうゆ。
枝豆はさやからはずす。
しょうがはすりおろす。
ボウルに水を切った豆腐をくずしいれ、枝豆、しらす、しょうがの絞り汁、塩、胡椒、しょうゆを入れる。
しらすにも、枝豆にも塩分があるので、塩は慎重に。
しょうゆは風味付け程度。ほんのひとたらしで。
味が決まったら、ごま油を回しかけ、さっくり混ぜて完成。
うーん。かんたん。
本日のビールは、最近はあまり見かけなくなった『サッポロラガービール』。赤い星のやつ。
何となく飲むビール、という感じだけど、永く飲み続けるビールって、実はこういうのがいいのかな、と思った。
どんなにおいしくても、毎日炊き込みご飯ではキツい。やっぱり基本の白いごはんに戻っていくように。
このメニューには本家がある。
『野菜だより』/高山なおみ(アノニマ・スタジオ 2005年)
本家との違いは、しょうゆを使わないのと最後にすだちを添えていること。
僕は、この高山なおみさんの料理が大好きです。力強くて。
特にこの本は、生き物としての野菜をいただくという感覚を強く感じる。
ある朝、グレゴール・ザムザがなにか氣懸かりな夢から眼をさますと、自分が寢床の中で一匹の巨大な毒蟲に變つてゐるのを發見した。彼は鎧のやうに固い背を下にして、仰向けに橫たはつてゐた。頭を少し持ち上げると、アーチのやうにふくらんだ褐色の腹が見える。腹の上には橫に幾本かの筋がついてゐて、筋の部分はくぼんでゐる。腹のふくらんでゐるところに掛かつてゐる蒲團は今にもすつかりずり落ちさうになつてゐた。澤山の肢が彼の眼の前に賴りなげにぴくぴくと動いてゐた。胴體の大きさにくらべて、肢はひどくか細かつた。
フランツ・カフカ/高橋義孝訳 『變身』(新潮社、1952年)より
月曜の朝、僕は毒虫に変身していたわけではなかったけれど、強い吐き気とともに目が覚めた。
セキヤは毒におかされている!早く教会に行って毒の治療をしてもらわないと!1歩歩くごとにHPが減っていく!
*「されば わが きょうかいに
14ゴールドの ごきふを。
よろしいですかな?
*「しまった。円しか持ってないや…。
それはさておき、朝の6時30分から吐き続けた。下痢もひどかった。尾籠な話で大変恐縮であるが、便器はひとつ。吐瀉物と糞便のどちらを先に処理するか判断しないといけないくらいだった。
悪寒もひどくて、体中の関節が痛い。39℃近い熱もある…。
結局、月曜日はベッドとトイレの往復しかできず、熱で朦朧とする意識の中、水を飲んでは嘔吐と下痢を繰り返すという一日であった。記憶がほとんどない…。
翌日、病院に行って下された診断は、『ノロ・ウイルス感染症』(!)
遅くないか?流行ってたの、2年くらい前じゃ・・・。
冬場は流行るらしいです。インフルエンザを心配していたので、とりあえずよかったが(よくないけど)、どうも下痢や嘔吐が治まるまでは僕も感染源であるらしい。触ったドアノブでもうつる可能性があるとのこと。
そういえば、先月頭から引越しその他でずうっとバタバタしていたな…。引越しが終わって、片付けが済んで、日曜日に友人の結婚式が終わって、ひと段落と思った矢先のノロ・ウイルス攻撃であった。油断した。
もともと胃腸は弱い。年に1回はほぼ例外なくダウンする脆弱な肉体の持ち主である。ここはもう、神様が休めと仰っているのだと(都合よく)解釈して、静養させていただきます。というかそれ以外にできることはない。
それでも三日三晩かかって、ブログを書けるくらいまで回復してきました。
我が家のトイレで独り、僕の惨状を具(つぶさ)に見つめ続けていた健気で可憐なガーベラも、些か疲弊気味だ。
嫌なものを見せてしまったなあ、と思う。
*「たのもしき カミの しもべよ
わが きょうかいに どんな
ごようじゃな?
*「用はありません。休むだけです。神様の思し召しどおりに。
井の頭公園は今、紅葉が見ごろだ。
今年はしばらく暖かかったので、紅葉が遅れたか。
井の頭公園はご近所なので、よく行く。三鷹台に住んでいたころは、吉祥寺に向かうとおり道でもあったので、2週間に一度くらいのペースで行っていた。というか、とおっていた。
今年は紅葉をしっかり見てやろうと思っていたので、先週(12月1日)カメラを持って行った。写真に収めてやろうと。桜の時期は人が多すぎてとても近づく気にはなれないので、紅葉はちゃんと見ようと思ったのだ。
なかなか見事だった。
楓の紅葉。緑と赤のグラデーションとか。
一本だけ、オレンジ色に紅葉しているのがあった。
ここの風景がいちばん好きだ。
ここは井の頭公園の南東の果て、井の頭公園駅の裏手あたり。
春の新緑のころもとてもきれいだし、雪が積もれば必ずここを見に来る。
井の頭公園はいつも人が多いけれど、ここまで来るとぐっと人が減る。穴場です。
通いなれた公園のきれいな時期に、カメラを持って写真を撮りに行くというのは、ちょっと気恥ずかしいものがある。
何というか、わざわざ出掛けて行く感。まるで、旧知の友人に改まって何かを話すような。
まあ、そんな一抹の含羞も見事な紅葉の前にはすぐに吹き飛んでしまったのだけれども。
引越しの荷造りのため、必要最低限のもの残して食器は早々にダンボールに詰めてしまった。大量の食器たちがいちばん厄介だと思ったからだ。
引越し前1週間は料理はしなかった。食べて帰ってきたり、買ってきて食べていた。詰めずに残しておいた食器はティーマのスクエアのやつとマグカップ、プレスガラスのコップがひとつと古い琺瑯の深めのお皿が1枚。
琺瑯のお皿がなぜ出ていたのか。それは荷造りをしている最中だというのに買ってしまったからである。
この期に及んでまだ買うのか。自問しないでもなかったが、出会ってしまったもんはしょうがないのである。
これがその琺瑯のお皿だ。色がすごくきれいなのだ。
何でも昔、旧日本海軍で使われていたものらしい。
(ちなみに盛られているのは、さばの味噌煮の缶詰)
底に碇のマークが押してある。
パンをのせたりもした。
実際普段使うのには、これくらいのサイズのもの(直径約16cm、高さ約3cm)があれば大抵はこと足りてしまうのだ。他になければ、これだけでもけっこういろいろ使える。
ところでこの琺瑯の海軍皿、盛り付けたたべものに独特の雰囲気を与える。この古さと『海軍で兵隊が実際に使っていた』という事実がそうさせるのか。
さば缶を盛り付ければ、食糧難の時代に薄暗い裸電球の下で最後の缶詰を食べている気分になるし、パンを盛れば、ヨーロッパの田舎の貧乏な村で固くなった粗末なパンをもそもそと齧っている気分になる。うすいスープを入れたら、旧ソ連のラーゲリ(強制収容所)の食事のような雰囲気を醸し出しそうだ。まるでソルジェニーツィンの小説みたいに。
どれもすごくネガティブだけれど…。
でもおいしく感じるのは、普通に考えれば何てことのないたべものを、まるでやっとありついた貴重なもののように変える力をこのお皿が持っているからじゃないかと思う。
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『Pocketful of Poetry』
Mindy Gledhill
この数ヶ月、僕は「ミンディ・グレッドヒルは分かってる!」と叫び続けてきた。この人のアルバムからはポップってのはこういうものさ、という自信が滲み出ていると思う。tr. 2『Trouble No More』がツボ中のツボ。僕の好物ばっかりいっぱい詰まってる。決して大袈裟な表現ではなく、棄て曲なし、最高に幸せな30分あまり。
『D'ACCORD』
SERGE DELAITE TRIO with ALAIN BRUEL
アトリエサワノのピアノトリオが大好きです。2枚同時発売のうちの1枚。これはピアノトリオにアコーディオンを加えた演奏。明るい休日のランチ。冷えた白ワイン飲みたくなる感じ。
J.S. Bach/Goldberg Variations
Simone Dinnerstein
ゴルトベルク変奏曲からグールドの影を拭いきれないのは仕方がない。この人の演奏には”脱・グールド”みたいな気負いはなく、曲に対してもグールドに対しても愛情に満ちていて、丁寧で、やさしくてすごく好きです。